フィリピン日記 20160528

2016年5月28日(金)

この日はACAYで音楽ワークショップ。JKの家で待っていると、先日Catch272で紹介されたDibaynがギターを背負ってやってきた。Keiくんは渋滞で遅れるというので、とりあえず二人でACAYへ向かう。

ACAYの方でも、女の子たちはまだ昼食後の皿洗いの最中だったので、しばらく待つことに。自分の仕事が終わった子からやってきて、いろいろと話しかけてくれる。昨日シャバットで会ったせいか、だいぶ打ち解けた態度。フィリピンの人の名前は私にとっては覚えにくくて、しかも同時に数十人とか出会うのでなかなか覚えられない。メモを見ながら、もう一度女の子たちの名前を確認させてもらう。これで本番までになんとか覚えられそう。

途中から「私の名前を日本語で書いて!」(これはジープで出会ったノルヴィックにも頼まれた)という流れになってきて、彼女たちが差し出す腕にカタカナで「マリアン」とか書いていたら、ACAYの他の施設にいる男の子たち、Kei君もやってきて全員集合。こういう帳尻の合い方、フィリピンぽい。

今日はDibaynがファシリテーターなので、ほとんどすべての会話がタガログ。Keiくんに確認はするが人数も多いので逐一通訳というわけにもいかない。Dibaynが「自分の走馬灯をイメージして、映画のようにその時に流れている音楽をつくってみよう」と伝えていると知って、あわてて「走馬灯で見えるのは、これから自分たちがつくる未来でもあるからね」と付け加える。ここまでさんざん死の瞬間について想像させるのを避けてきたし、事前に伝えてあったのに!と思ったけど、少年少女たちの反応を見る限りは大丈夫そうだったので、(想定外の)テストとしてはよかった。ただ一番最後の振り返りで「以前にあったことを思い出して少し悲しくなった」というコメントもあった。

ワークショップが終わった後は、三人でLeonaへ行ってピザを食べながら、今回のテーマでもあるコミュニティの話、それぞれの国でアーティストとして生活することについて、といった話をした。DibaynもKei君も私も3人〜5人きょうだいの真ん中っ子であることが判明し「あ〜やっぱり」みたいな共感が生まれたが、きょうだい構成による振る舞いの傾向は国が違っても同じなんだろうか?

JKの家に戻り、Kei君とちからさんがマリキナの話で盛り上がっている(Kei君はマリキナ在住)横で作業をしていると、クリスの作品『Play-Cebo』のプレヴューを見に来ないか、とサラから誘われ、急遽行くことに。会場はクリスが実際に住んでいる自宅。数カ月前までJKが隣に住んでいたので、通りにも建物の間取りも懐かしい。

この作品は、クリスが自宅で従兄弟たち(この日は5〜6人?)と一緒に創作・上演するという実験的な企画。彼らが子供時代にやっていた遊びから始まり、家の中の各部屋を移動していきながら、キッチンでの悪ふざけ、夜のベッドルームでの光のショーごっこ、さまざまな時代の思い出が混在した部屋(おもちゃ箱をひっくり返したような、という表現がぴったり)などを体験する。
でノスタルジックな作品なのかと思いきや最後に戻ってきたリビングで突然サーベイ(点数式のアンケート)を渡され、この「体験という商品」を評価することを求められる。質問の中には「いくらなら払うか」「グッズ展開をするならどんなものがいいか」といった問いもあり、本番の公演後に聞いたところでは「experience economy」をテーマにした作品だということだった。

なんだけどこのプレヴューを見た後、フィードバックの場でなぜか号泣してしまった。その時は正直、experience economyというテーマはクリアに伝わらず、クリスたちのノスタルジックな思い出を魅せられているようで「ああ、この人たちは幸せな子供時代を過ごしたんだな」という印象が残った。そして私の中ではものすごい違和感が膨れ上がってしまって苦しくなってしまったのだった。ひとつには、その場にいたみんなが共有できるコンテクスト(おもちゃ、歌、アニメ)を私は何一つ共有していなかったこともあるだろうし、冒頭の「子ども時代に戻って遊ぼう」というインストラクションが効きすぎたということなのかもしれない。別に私が不遇な幼少時代を過ごしたという話ではなく、子ども時代というのは多かれ少なかれ当人にとってショッキングで受け入れがたい体験を含むものだと思うのだ。あらゆるものと新しく出会い、理不尽で、自力では解決不可能な痛みや感情と対処しなければならない。自分の記憶では、小学校に入って多少世の中のことが分かり始めるまでは、世界はとても恐ろしかった。毎日いやなこと、気に入らないこと、こわいことがたくさんあって、そのたびに泣きながら全力で拒否していた。自分の姪がそっくりなので多分あんな感じだったんだろうと今は客観的に把握できるが、そんな恐ろしさがよみがえってきた、ような感じだった。

ここでは私には言語=思考能力というガードが効いていないので、わりと心がむき出しになってしまうのかもな、ということも新しい発見だった。

そんなわけで、私が心を寄り添わせることができたのは、クリスの飼っている二匹の犬たち(特に小さい方のアカーシャ、昔飼ってた「ちー」という犬によく似てる)、不器用でいつも笑われている従姉妹のひとりがギターで弾き語ってくれた「Youth」という歌、2匹のパンダが階段を昇り切ったところで滑り台で一番下まですべり落ちてしまい振り出しにもどる、それが永遠に繰り返されるおもちゃだけだった。

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